CSParkの姉妹サービスとして2014年より始まった体育会学生の就職サポートサービス"CSPark Career"。 ここでは体育会学生が就職活動と部活動の2つを両立し、共に全力で取り組めるようなイベントやサービスを提供していますが、今回からそのサポートの一環としてCSParkと連動した"元体育会学生"によるインタビューを連載していきます。
"体育会の強みって?"
"スポーツしかやっていなくて就職活動が不安…"
"実際に先輩たちはどういう仕事をしているの?"
… など、自分の進路を考える上で悩みは尽きないもの。その疑問や不安を解消し、1人1人の体育会学生が自信を持って就職活動に臨めるように、先輩たちが部活 に励む体育会学生の皆さんへのメッセージを添え てインタビューに協力をしてくれました。第5回は早稲田大学ア式蹴球部(サッカー)の卒業生であり、現在は株式会社テレビ朝日のアナウンサーとして活躍中の寺川俊平さんにお話を伺いました。
大学4年までサッカーをやっていた中で、8割5分は辛かった。
−寺川さんはサッカーをやっていたということですが、始めた経緯を教えて下さい。
保育園の年中のときに、一番仲良かった友達のお兄さんが鷺宮サッカークラブというところに入っていたので、それで始めました。そのまま続ける中で、暁星中学が、サッカーが強いというのを知っていったんです。クラブのコーチで70歳を超えているおじいちゃんコーチがいたんですけど、その人がめちゃくちゃ上手で。もう、本当に誰よりもFKが上手かった。その人が暁星出身だったんですよね。古豪と言われているし、伝統校だったから、そこでサッカーをしたいなと思いました。自分はサッカーを続けることしか考えていなかったです。いつもそうなんですが、やめたときの自分の姿が思い浮かばない。上手い下手関係なく、毎日毎日サッカーのことを考えて生きている生活に慣れ親しみすぎて、他のことをやるという勇気がもう無くなったんですよね。それで中高とサッカーを続けることができました。高校の最後だけしかレギュラーとしては出られなかったのですけど。
−強豪校でやる中で辛かった思いもあったと思います。
大学4年までサッカーをやっていた中で、8割5分は辛かったですよ。暁星中学も強かった。僕が中学1年、2年の時には全中(編集部注:全国中学校サッカー大会のこと)で優勝しましたしね。僕はスタンドから応援でした。チームの中ではけちょんけちょんに言われていて。”下手くそだ”と。学校ではそれを理由にちょっといじめられたりもしました。でも自分ではラッキーだったと思っているのが負けず嫌いだったこと。そこでやめるのは絶対悔しいから嫌だった。常に耐えながらやっていました。でも、それでも続けていたら、高校3年生のとき、中学3年生の最後もそうだったんですけど、最高学年になって信頼してもらえるようになったんです。
−続けた結果が実ったという経験があったのですね。
後に大学時代に監督をしてくれた大榎克己さん(元 J1・清水エスパルス監督)が毎日のように「続けること。続けることしかないよ」と言い続けていました。これは本当にその通りだな、と今でも思います。絶対に、続けないとわからないし、できないし、見えない世界がある。自分はやめるという選択肢をもっていなかった。試合に出ていたのは中学3年生の高円宮杯の予選と、あとは高校3年生の1年間。大学では出られるようになったのがIリーグ(関東大学サッカーリーグにおけるいわゆるセカンドチームのリーグ)。4年生になって出ることができました。
プロになるというのはあまりにも実現可能性の低いものだと感じていた
−進学先として早稲田大学に行った経緯を教えて下さい。
サッカーが強かったからですね。自分は一般受験だったんですけど、学年の中で現役の一般受験は自分しかいませんでした。セレクションはあって、それを通って入ったんですけど、万年ドベですよね。衝撃を受けました。「こんなにみんな上手いのか」と。それと「こんなに自分が下手なのか」と。ある種、挫折ですよね。
−その中でもサッカーをやりきろうという思いはあったんですね。プロは目指していたのでしょうか?
高校3年生のときにTリーグ(東京都の高校生が戦うリーグ戦)が開幕したんです。その、T1リーグ初戦、駒澤第二球技場のこけら落としで、FC東京U-18と対戦しました。そこで相手のGKが権田修一選手(現・J1 FC東京)だったんですよね。自分の1個下だったんですけど、次元の違いが凄かった。クロスボールを高い打点でキャッチしたときに、自分のチームのFWが、権田選手の伸びている身体の足元に突っ込んでいったんです。それで彼(権田)が頭から落ちそうになったんですけど、なんと、ボールを持ったまま飛び込み前転してそのままパントキックを蹴った。しかもピンポイントで味方に渡した。それを見て「プロってすごい世界なんだ」と。そのすぐ直後に彼はプロになった訳ですけど、「彼ですらまだU-18なんだ」と。なので、プロになるというのはあまりにも実現可能性の低いものだとは感じていました。
−プロという選択肢が消えていた中でも大学でサッカーを続けたのですね。
どこまで行けるのかを試してみたいと思いました。でも、入ったもののレベルが高くてついていくのに必死で。高校時代だったらやらなかったような、信じられないミスも出てくる。メンタルがやられているんですよね。インサイドキック1つにしても足が震える。その当時は早稲田がパスサッカーをやっていた全盛期、兵さん(兵藤慎剛 現J1・横浜F・マリノス所属)がいたときです。CチームとかBチームですら元代表クラスの選手がいて、レベルがすごく高い。5mのパスを出すのだけでも足が震えてあさっての方向に行ってしまう。それが3年くらい続くわけですよ。
−その過程の中で辞めたいとは思わなかったのでしょうか。
辞めたいとは思いましたけど、辞めようとは思わなかったです。みんな上手すぎて「こんな中でやってられないし、グラウンドに行きたくない」とは思ったこともありましたけど、実際に「辞めますか?」と言われたらそこで「辞める」なんて言う気は無かったです。なんせあのテレビで見ていた大榎克己が『続けることだ』と言うんですもの(笑)。あとは、中学、高校と続けてきたことで、最終的に誰かに信頼されるとか、試合に出られなくてもチームの中で自分のできることを探して動くということが意識出来ていました。続けることの大切さがわかるのは、それをやりきったときしかない。やっているときはわからないということを中学と高校で経験していたので、続けた後には何か待っている、というイメージがあったんですよね。だから、続けてやろうと思いました。やめるという選択肢は無かったです。
全ての価値観がサッカーを通して作られた。
−そんな中で就活を迎える訳ですが、アナウンサーになろうと思ったのは何故でしょう。
アナウンサーになりたいというよりかは、サッカーに関わる仕事がしたかったんですよ。自分はプロサッカー選手にはなれなそうだけど、サッカーというものから離れることができないなと思ったんです。そんな完全なるサッカーフリークだったので、そこから離れるという選択は頭に無かった。それまでの自分の人生を振り返っても、何をやってきたかと聞かれれば、サッカー以外はなかったし、もともと喋るのは好きだしなぁ、と。あとはミーハーなので。ちなみに芸能人に会うときは未だにテンション上がりますよ(笑)。それで、アナウンサーがいいなと。過去の自分はサッカーで全ての物事を決めてきた。全ての価値観が、サッカーを経由して作られたものだった。それで実況という方法でサッカーに関われるアナウンサーという仕事が魅力的に見えてきたんですよね。もっと言うと、僕はGKだったんですが、それも関係しています。というのも、GKとしてのポテンシャルはなかったけど、声を出すことはずっとやってきた。やっぱり、GKは味方に何かを伝えて、ポジションを動かす。能力がないからシュートを打たせない方法を考えたんです。正面に蹴らせた方がいいわけだから、そうするには90分間声を出し続けるしかない。これもまた続けるということなんですけどね。これをやり続けて完封できたりすると、自分の伝えたことが伝わって、理解してもらって、それによって信頼をしてもらって、動いてもらって、勝ちたいという目標が叶えられる。こういう作業を繰り返し目指してやってきたなと。そこでわかったのが、“人に何かを伝えてそれが伝わり、快感を得る”ということは面白いことなんだな、と。そして、「人に言葉で何か伝えるアナウンサーの仕事はGKに似ているんだろうな」と思ったんですね。アナウンサースクールは行っていなかったけれど、「自分は120mも先の味方に声を伝えることをやってきたので、発声はできる」というのは自信持ってました(笑)。遠くにいる1人の味方にどう伝えるかを考えて、どう言葉を出して、どう言葉を紡いでいくかを考えるということが、アナウンサーに近いんじゃないかなと。だから、採用試験を受けようと思いました。結果その発想がラッキーに繋がった気がします。
<後編へ続く>